かもとかち

自分と対話します。

精神病棟での夜

 ふらふらと看護師に支えられて自分のベッドに倒れこんだ。めまいがひどく吐き気もあると伝えると、ここに吐けとおまるのような物を渡された。そのあとに血圧を図られて、ただの低血圧なので大丈夫ですねと看護師は言う。

 おいおいお、大丈夫な訳がないでしょう? 意識もなく廊下まで歩いて気絶した経験なんて生まれて初めてだ。ここに来て初めてなったんだぞ。原因くらい気にかけてくれてもいいんじゃないか。

 

 消灯してからの閉鎖病棟は、まるでゾンビゲームのステージのようだ。

 夜も深まり日にちを跨いだ先でも誰かが必ずうろうろと廊下を徘徊している。僕の与えられた寝床は入り口近くに配置されていて、その様子が嫌でも目に入ってしまう。その徘徊している患者たちは、ドイツもこいつもフランスもいちいち病室の中をチラリ、ん、やっとるか? という具合に覗きこんでくるので気になって仕方がない。そしてたまに目があってしまう。するとゾンビみたいに襲いかかってくるのではないか? と不安で不安で心が辛い、辛いよう! と悲鳴を上げた。

「ああああッ!」

 悲鳴を上げたのは同室一番奥右側で発狂し始めたおじさんだった。

 寝付きが悪いのかなあ、さっきからいきなり叫びだすからびっくりしてしまうよ。この病室には六人も詰め込まれてるのに、他人に対して容赦という念がないのかしら? そんな大きな声をあげたらダメだってお母さんに教わらなかったのかな? ああ、だからこんなところに入院してるのか。悪いのは彼じゃない。こんな場違いなところに来てしまった自分が悪いのだ。

 じゃあ寝ろよと思われる方もいらっしゃるでしょうが、これが全然に眠れないんです。案の定、睡眠剤が全く効力を発揮しなかったので窓口までふらふら赴き、眠れませんと夜勤の看護師に言って頓服を処方してもらう。ただこの頓服剤が曲者で、寝付きをよくさせるのではなく、どうやら身体をだるくさせて眠らせるタイプのものであり、意識の方は悲しいほどに冴え渡ってしまっていた。そして時間が続く、続く、続く。

 ああ、気が狂いそうだ……! 空調のせいか空気が乾燥していてうまく息ができない。呼吸が難しい。鼻が詰まる。溺れる。苦しい。眠るというのはこんなにも大変なのですね。

 

 今度は不安を安定させる頓服をもらった。これは液体で出来たもので、最近のニュースに同僚の飲み物に混ぜて飲ませ、事故を起こらせるという事件があったのを思い出した。あの犯人は何がしたかったのだろう。そして僕はこんな場所で何を苦しんでいるのだろう。

 そもそもここに入ったのは、あたまがぱんくしてしまって心の休息が必要だろうと判断したからだ。それなのにこの閉鎖病棟ときたら、休ませるどころか殺しにかかってきているではないか。断薬するにも、こうもばかばか頓服を飲んでしまっているから全くできていない。

 

 ここにいる意味がない。

 

 なんてこった。意味がないのである。むしろ悪化してしまっている。意味があるなら我慢もしようという気になるが、頑張ってもなんのリターンもないのだ。必要がない。とんだ思い違いをした。心が休める場所が、なんと、病院にすらない。存在しない。生きる逃げ道がない。死ぬしかなくね?

 

 一瞬ほど眠りに落ちて、電車のホームにいた。後ろには昔の知人が立っていて、早く死ね、と催促してくる。

 彼女には本当に悪いことをしてしまった。僕の心ない一言で傷つけてしまい、自棄になってたくさん悪い薬物を摂取して、吐いたゲロが喉に詰まり、窒息死してしまったのだ。

 電車がやって来る。下を見下ろすと、線路がどこまでも続いている。まるでリストカットでできた彼女の腕のキズのようだ。後ろから伸びた手と見比べてみると、ほら、真っ赤に染まって、線から球のように溢れだして、血が綺麗に流れ出し始めた。赤い線路を踏み切る電車に血が跳ね返って、車体を朱に染めていく。まるで人でも轢いてしまったようだね。いや、これから轢くのかな。目の前まで迫ったとき、後ろにいた彼女が僕を突き飛ばそうとするのがわかった。

 とっさにそれを僕は避けて、行き場を失った彼女の身体はそのまま線路の下に落ちていく。ばしゃんと大きく弾けて、視界が全て赤になる。通りすぎていく電車の音だけが激しく鳴り響く。僕は自分のことがとても大切で、死ぬのが恐くて仕方がない。そしてまた、こうして彼女を殺してしまうのだ。

 

 こんな夢ばかり何度も見るものだから、僕は睡眠導入剤に手を出したのだった。ずっと飲んでたからすっかり忘れてしまっていた。マイスリーには健忘の副作用があって夢をも忘れさせてくれるのだ。それでも思い出してしまうのだね。

 

 そんなわけで、僕はこんなにも苦しい思いをしたんですよ。だから、低血圧で倒れてしまったんです。

 え、とりあえず頓服を飲めだって? あはは、看護師さん、話一つも聞いてないでしょ?