かもとかち

自分と対話します。

精神科閉鎖病棟にて

 とんでもねぇところに来てしまった。

 精神病棟なんて、入院だなんて言ってもさ、今どき情報化社会なんだからそんな、よくイメージである発狂だとか、とにかくヤバい感じの、あれ、まさかそのまんまだとは思わなんだよ。

 ここ数日過ごして、自分は全然普通の人間で、普通の人間だった。諦めたのは精神が弱かったからで、貧弱で自分勝手でただの甘え、つまり病気なんかじゃあない、なんともかんともなかったんですよ!!!とずまりすこるところで言えば健常、いたって健康的でありむしろ今まで休み過ぎたくらい職歴もまっさら空白なわけで、それでちょっと嫌なことが重なったからと言って自分は心の病気なんだと決めつけてただ面倒な現実から逃げたかっただけなんです。ここに入るにはちょっと普通過ぎた。

 

 思えばあのとき、入院先を紹介してもらうはずのクリニックの先生が病気都合で欠勤していて、その日はその周りの土地さえ知らない臨時の医師さんにこんにちは、ちょっとしんどいで入院していいっすか?え?ここら辺の病院を御知りでない?それは困りましたなあ、なら仕方ありません、まぁ入れるならどこでもいいですよ。ってな具合でひょいと放り込まれた先は閉鎖病棟。ここ、新しい人は滅多に来ないらしいですね。君、入院は初めてかい?なんて人生で何度もこんなよっぽどにイカれたやつしかいない場所来ることなんてないでしょう?え、あなたはこれで数回目?そうでしたか。たしかにあんたはイカれてら。それは僕のコップなので返してくれませんかね。

 

 入院直前にそこの先生が「君とはここは合わないと思うんだけど、一度患者たちの風景を見てから判断しない?」と実に素晴らしく慈愛に満ちた問いかけをしてくれたというのに、あたまがぱんくして馬鹿になってしまった自分は「えーい、ここまで来れば、ままよ!」と男気溢れる判断で一瞥もくれずに入院する事に決めてしまった訳だけど、というかここまで来てやっぱやめます~なんて言えないじゃない?だから決心が鈍るのが嫌で、そのまま入っちゃった訳だけど、、今は、見とけばよかっなぁ!?だってヤバすぎでしょ……泣いて泣きじゃくって駄々こねてもでもいいからそんなつまらない自意識過剰なプライドなんか捨てちまえばよかったんだ、そんなものがどうでもよくなるくらい、ここは地獄だぞ。

 

 入って一時間くらいは現実味に欠けて、はえー、ほうほう。みんなやっとるな?ってな具合に余裕しゃきしゃきに構えちゃって、まぁこの六人部屋のカーテンすらないプライベートも糞もない空間も落ち着かないけどなんとかなるっしょ、と軽い挨拶をしたらやたらめっかしに話しかけてくる隣のおじいさん。

「僕はねぇ、鬱でリュウマチで、イボ痔なんですよオ」

 そうですか。それは大変ですね。

「だからねエ、お兄さんは、表情もいいし、すぐに退院できますよオ!」

 そうですね。がんばります。

「そしてねエ、実はねエ、僕はア……」

 はいはい。なんでございましょう?

「僕はア、鬱で、リュウマチで、イボ痔なんですウ!」

 という会話を初日で五回ほど付き合わされた。鬱にリュウマチ、あとイボ痔。それに痴呆がないのは、忘れてしまわれてるのかしら?

 そんな不毛な会話をしていると、おじいさんは僕に持っていたクッキーをくれた。それを食べずに入院によくある収納台の上に置いていたら、全くこの病室に関係のない、ずっと廊下をなん往復も徘徊しているおばあちゃんが入ってきて、僕の目の前で取って、出ていった。ほんとにもう、ここは、プライバシーもへったくれもないところだなぁ!?あたまがお菓子くなってしまうよ!

 

 それにしても、夕食の時間が近い。病院食はロビーで配膳されるということで、僕はそこに向かい一足先に流れているテレビでも観ながら待っていた。台風近いんだってね。ここは閉鎖されていて、空調がやたら回転しているものだから外の影響がびっくりするほどにない。そんなお天気情報をぼーっと馬鹿になったあたまで聞き流していると、ふと感じる謎の視線。

 テレビの丁度下、向かいの席に、白髪混じりのおばさまが座っていらっしゃるじゃないですか。僕はテレビを観ているんです、あなたを見ているんじゃありませんよ。だから、ああ、こっちこないでよ、もう。

 そして叩かれる肩。別にあなたに因縁つけていたんじゃないですよ、あなたの上にいるお天気キャスターに並々ならぬ因縁があるんです。なんてしょうもない言い訳を考えていると、そのおばさまから紙を渡された。

 

 そこには名前と部屋番号が書いていた。

 

 ああ、自己紹介でしたか。僕、新人ですもんね。これは失敬しやした。

 

 そして渡される紙とペン。

 

 指でとんとんと催促される。なるほどなるほど、次はこちらが自己紹介する番でしたね。すらすらりと。これでいいですかと言うと、満足そうに元のテレビの下に戻って行った。そうかそうか、ここでは様々に問題を持った人がいるけれど、コミュニケーションが難しい人がたくさんいるけれど、こういう彼らなりの距離感で接する方法もあるんだなと感心した。感心したんです。そうして元のテレビを観直すと、下から感じる熱視線。気づくとうざいなぁ、挨拶も終わったし視界からさっさと消えてくんねぇかなぁ。早く飯来ねぇかなぁ。なんて失礼なことを思ってしまったりしていると、またおばさまが立ち上がりこちらまでやって来た。

 

「わたし、恋愛禁止だから、お友達でお願いね」

 

 その言葉を満面のシワができた顔で、くしゃりと笑って言うと、おばさんはまた元の席に戻って行った。

 この瞬間、おぞましいほどの寒気が底から現れて、ようやく自分の置かれている状況に気づいた。

 何で問題のある人たちと僕は上から目線で物を見ていたのだろう。今彼らと同じ土俵に立っているのだ。同じ檻に入れられているのだ。これはだめだ。違う、全然違う。一緒なんかじゃありませんでした。あなたたちのほうがよっぽど重症です。おめでとう、僕の完敗です。僕は全然、普通の人間でした。それにしてもなんだよ友達でねって。なんでこっちが振られたみたいになってるんだ。このババァ、上から目線で僕のことを見てやがったな?

 僕はパニックになって部屋に戻ると、隣のイボじいさんが壊れたラジオのように同じ言葉を投げ掛けてくる。

「お兄さん、オ兄さん……」

 なんで横になっている相手を起こしてまで語りかけてくるんだ?ここでは今までの人生で身に付けてきたはずの処世術が全くの意味を持たない。丸裸にされてしまう。怖い、怖すぎる。

 ロビーに顔をださなければ、どうやら看護師の方がわざわざ夕食を病室まで持ってきてくれるシステムらしかった。

「ここ、ヤバくないですか?」

 人間性を求めて看護師にそう尋ねてみると、聞いたような聞かなかったような曖昧な反応だけをして看護師はその場を去っていった。

 嗚呼、そうか。もう僕は、彼ら看護師にとって、大勢いるキチガいの中の一人なのだな。となると、本当に誰一人として味方がいないじゃないか。こんな危なっかしいところでこれから何日も一人、ここで生活を送らないといけないわけか。そうか。まずい。いよいよもって、まずい事態だ。まだ数時間しか経っていないのにもう懲りてしまった。これから先のことを考えるだけで心が死ぬ。1分1秒が永遠に感じる。それを耐えた先の時間にも、何の希望もない。拷問はジュネーブ条約によって禁止されているというのにな。

 

 そして追い討ちをかけるように奴が病室の前に現れた。

 プライバシーのない空間ではあったけど一応扉はあったはずだろ。なんで開けっ放しになっていたんだ?さっきの看護師か、檻の蓋くらい閉めて行けよ。本当にここの職員はなっていないな。そのせいでもうこんなにも参ってしまっているのに、さらに僕を苦しめるつもりか。

 そこに立っていたのはさっきのおばさんだった。

 もじもじと病室の中に入ってきて、僕の目の前で止まり、もぞもぞと僕に折り畳んだ手紙を渡した。そうして恥ずかしそうに去って行った。本当に、こいつは気持ちが悪いなぁ!!?

 その手紙の内容は書きなぐって書いたのか要領が得ない病んでる人間特有の文章で、とにかく向こうの興奮がしっかりと伝わってくる。そしてわりと本当に向こうはそういう目線で見ているというのがわかった。生まれて初めてラブレターをもらったけど、気味の悪い人間から渡されるとこんなにも不快なのだな、生理的に無理ってこういう感じか。これはたしかに無理だ。

 

 さっき食べた糞まずい病院食が胃から込み上げてくるほど気分がひどい。そうしてようやく消灯時間がやってきた。夜9時である。

 そして、すっかり忘れていたことに気付く。僕はこの病院に入院する目的の一つとして、いつも過剰に摂取して自制が効かなくなっていた睡眠導入剤を絶つのが動機の一つだった。今窓口で渡された睡眠薬の量は普段の5分の1程度しかない。僕にとってはこの量はただのラムネでしかないのだ。

 そんな状況で、今からここで朝が来るまで眠らなくてはならない。そして朝がきても、なにかが改善される訳でもない。未来が暗いね。無理だった。

 僕は次の朝、廊下で倒れこんでいるところを看護師に発見された。