かもとかち避難所

自分と対話します。

小説1


題名『桃の形』   
 


 1

 母に桃太郎という絵本を読んでもらいました。
わたしはまだ、両の手で数えられる程度のお子様でしたが、その絵本のお話に心躍らされることはありませんでした。ですが、一つだけとても気に入っている部分があります。
 それは、わたしの名前にも『桃』という文字があるところです。このとき初めてなぜわたしがこの名前であるのかを母に尋ねました。それ以来、わたしはこの桃太郎という童話に心をよせるようになりました。

 

 明くる日、わたしは桃太郎に真似て、母にきび団子を作ってもらいました。特に予定もなく、意味もなかったのですが、なんとなしにそのきび団子をポーチに仕舞い、外に出かけたのです。
 空の色は曇り空、うっすらと霧がかった街の風景。そんな中をぽてぽてと歩いていると、とある団地の辺りにある草の影から、白い、何だかもそもそとしたものが見えました。


 猫です。

 一回りほど体が小さいので、子猫なのだと思います。

 その白い体はカラスにでも突かれたのでしょうか、所々に赤みを帯びていて、片目は潰れています。わたしはその猫のそばまで近寄りました。子猫はわたしに対して警戒の色を見せましたが、それでもその場から逃げる事はありませんでした。

 どれほどの時間が流れたでしょうか。わたしと子猫はずっと長い間見つめ合っていました。片目だけが見開かれたその目が、わたしをその場に縛り付けていたのかもしれません。
 ふと、鼻の頭にぽたりと水滴が落ちたかと思えば、しとしとと雨が降り始めました。わたしは雨を防ぐために、ポーチの中から折り畳み傘を出そうとすると、そこにきび団子を入れていた事を思い出しました。
 桃太郎は鬼を退治するため、動物たちにきび団子を与えて仲間を増やしていました。もちろんわたしには退治するべき鬼などはいませんが、このときはただ、その真似をしてみたかっただけなのだと思います。犬でもキジでも猿でもありませんでしたが、わたしは手に持ったきび団子を子猫の前に差し出したのです。猫は戸惑いの色を見せましたが、しばらくの後、そろりそろりときび団子を食べ始めました。本当に、ゆっくりと、とてもおいしそうに食べていたのです。
 そのとき、子猫の潰れた側の目に、一閃の光を見ました。最初は涙を流したのかと思いましたが、小雨だった空の表情がだんだんと険しい色を見せ始め、子猫の小さな体を濡らしていたようでした。
 私はそれを見て、まるで蝋燭の小さな灯火が消えてしまうような気がして悲しい気持ちになり、手に持っていた折り畳み傘を子猫の上に置いてやったのです。風で飛んでしまわぬよう石などで固定した後、急に雨が土砂降りになり始めました。傘を猫に渡してやったので、少しばかり猫との時間が名残惜しかったのですが、私は自分が濡れて風邪を引いてしまわぬよう踵を返して家に帰ろうとしました。


 そのときです。
 にゃあと、猫の鳴き声が聞こえました。
 子猫は鳴き声をあげないほどに弱っていたのですが、その一度だけ、声を上げたのです。
 それは、白鳥の歌でした。

 

 3

 晴天の空。わたしは路地に溜まった水たまりに足を掬われぬよう、気をつけながら子猫がいた団地へと向かいました。
 昨日、ずぶ濡れになって帰ってきたわたしを見て母は大層驚いた様子で心配をしてくれました。
 あの折り畳み傘はわたしの大切な宝物、いつも肌身離さずに持ち歩いていることを母は知っていたからです。その所在について母に尋ねられましたが、わたしはなんと言葉にしてよいのか分からず、さらに母を困らせてしまいました。
 
 団地に着いた後、傘を置いてきた場所を探しました。ここへ赴いたのはお気に入りの傘を回収して母を安心させたいがためでしたが、それ以上に子猫も気がかりでした。
 しばらくのあいだ、団地の草むらをうろうろとしていたのですが、傘は一向に見当たりません。しっかりと固定したつもりでいましたが、風邪で飛ばされてしまったのでしょうか。傘を目印にしていたので、子猫にも会えなくなってしまうのかと思うと、なんだかとても悲しくなってしまい、涙が落ちそうになってわたしはその場で膝を抱えてうずくまったのです。


 そのわたしにふと、声がかかりました。
 顔を上げると、初老の男性でした。

 わたしはこの人を知っています。町内会の会長さん。ご近所でも評判の良い人で、名前は鬼頭という人です。両親と街の清掃に参加したおり、何度か顔を合わせる事がありました。
 鬼頭さんはわたしのことを心配した様子で話しかけてくれたのでした。わたしは大人の人と上手く話をすることができないので、どうにもまごついてしまいます。それでも鬼頭さんは、そんなわたしの調子に合わせてくれて、噂通りのとても良い人だと思いました。
 鬼頭さんはふと、何かを思いついた顔をして手に持っていた手提げ袋をごそごそと探り始めました。そこから現れたのは、わたしが置いてきた折り畳み傘でした。
 鬼頭さんはこの団地の管理もしており、見回りの際に傘を見つけて、そこにわたしの名前が書いていたのでとって置いてくれたそうです。
 わたしはお礼を言いました。その後、どの辺りに傘を置いていたのかを鬼頭さんに尋ねました。鬼頭さんが不思議そうな顔をしていたので、そこにいた子猫に団子を与えたことを話しました。

 すると、鬼頭さんはなんだかとても不機嫌な表情をされたのです。わたしは何か粗相をしてしまったのかと恐くなりました。
 鬼頭さんは怒気を込めてわたしに言います。
 野良猫がよくこの団地に住み着くこと、そのせいでゴミ置き場がよく荒らされること、糞や臭い等々。団地の管理をしている鬼頭さんにとって、野良猫はとても迷惑な存在なのでした。その野良猫に餌を与える人はもっと迷惑なのだそうです。仮に餌を与えるのであれば、全責任を負ってその猫を飼うべきだ、それができないのであればただ迷惑なだけなのだと。
 もう二度とそんな真似はしないでくれと、鬼頭さんはわたしを諭します。それでもわたしは納得がいかなくて黙っていると、鬼頭さんは満足したのか、わたしの前から去っていきました。

 その去り際に、傘の下にいた猫は死んでいたので処分したと、わたしに言い残していったのです。

 

 4

 太陽がジリジリと熱くて、わたしは日傘代わりに返してもらった折り畳み傘を開きました。
 開いた傘の下でわたしの世界だけが影を落とし、とたん、胸の内からどす黒い何かが溢れ出てきて、わたしは心がくさくさするのを感じました。
 鬼頭さんはとても良い人です。町内会では多くの人をまとめあげ、団地の管理もしっかりとこなしています。そんな人が言うのだから、先ほどの野良猫の話も正しいことなのだと思います。それはとても公平なことで、わたしがしたことは結果的に様々な人に迷惑のかかる行為だったのでしょう。

 それでも、わたしは割りきることができませんでした。
 正しいから、間違っているから、人間だから、動物だから……そういうことではないのです。
 ただ、お腹をすかせて衰弱している命が目の前にあったとして、そこに施しを与える事は罪なのでしょうか。全責任を負えなければ与えてはいけないのでしょうか。それは偽善になるのでしょうか。結果、多くの人に迷惑がかかるからといって、あの子猫は死ぬべきだったのでしょうか。
 なんの結論も見いだせぬまま、わたしはその場を後にしたのです。にゃあ、という猫の声は、もう聞こえませんでした。

 

 5

 その夜、夢を見ました。
 視界が狭く、とても低くてなんだかぼんやりとしています。
 心細くて鳴き出したいほど寂しい気分。めそめそとしていると、そこにわたしよりも一回りほど大きな存在が現れました。それにぺろりと舐められると、温かい揺りかごのような気持ちになるのです。
 わたしはとことことその大きな存在についていきます。とても、もこもことしていました。
 ふいに、轟音が聞こえました。
 その方を見ると、巨大な怪物のようなものがこちらへとやってきます。恐らくそれは車でした。ただ、ものすごく大きいのです。わたしは恐怖で足がすくんでしまい、動けずにいました。
 車が目の前にまで来たとき、もこもことした存在にわたしは首元を噛まれて、端の方へと投げ飛ばされたのです。
 ぺしゃりと音がしました。
 もこもこが潰れていました。わたしは悲しくてそちらの方へ駆け寄ろうとしたのですが、後から後から大きな車がやってきてわたしを遮るのです。そのたびにぺしゃりぺしゃりと潰されて、跡にはもう、真っ赤な血の色だけが残っていました。

 一匹に残されたわたしは、当てもなくうろうろとしました。
 縄張りというものがあるそうです。小さくて力のないわたしに居場所はありませんでした。追い立てられて怪我をしました。逃げ回っていると、一か所だけ、誰も寄せ付けない場所があったのです。なぜ他がこの場所を縄張りにしなかったのかは分かりませんでしたが、わたしはそこで体を休める事にしました。
 そうしていると、視線を感じました。大きな人間がこちらを見ています。あれは鬼頭さんでした。
 急に痛みが走りました。
 鬼頭さんがわたしを思いっきり蹴飛ばしたのです。
 わたしの体は大きく浮かび上がり、コンクリートの路面に落ちました。そこにあった小石が目に入り、片目が潰れました。
 鬼頭さんがまたわたしを蹴飛ばそうとするので、痛みを堪えて逃げました。とにかく必死に逃げたのです。振り切った頃にはもう、わたしの身体は動きませんでした。
 草むらの木陰に横たわっていると、ぐうとお腹が鳴りました。長い間何も食べていませんでした。体が痛くて餌を探す事もできません。声をあげる事もできません。太陽は雲に覆われてしまい、恐らく雨が降るのでしょう。体が寒くて仕方がないのに、温かな光はわたしの元には降り注いでくれません。次の太陽が顔を見せる頃にはもう、世界のどこにもわたしはいなくなっていることだと思います。

 そこにまた、人影が現れました。
 また蹴られるのかと思い逃げだしたかったのですが、満身創痍で動くことができませんでした。鳴き声をあげる力もありませんでした。ただ、警戒をすることしかわたしにはできません。相手を睨めつけているのに、片目が潰れていてよく見えません。そんな時間がしばらく続いたのです。
 雨が降り始めるまでじっとした時間が続いた後、相手はわたしに手を伸ばしてきました。そのときに顔が近づいてきて、片方だけの目でも相手の姿を伺うことができました。
 それは、その人間は、わたしだったのです。

 

 夢見るわたしは子猫でした。
 どんなに体が痛くても、どんなに体が寒くても、目の前に置かれたきび団子を食べているその時だけは、胸の奥からきらきらとした温かなものが膨れ上がって、喜びに満ちていました。雨を防いでくれるために置いてくれた傘は、子猫には太陽のようでした。小さな猫の走馬灯のような命の営みの中で、この瞬間は幸せでした。


 温かな傘の太陽の中で、なんだかとても眩しくて、片目は潰れているはずなのに光が溢れて止まりません。

 雨の音も遠くなって、太陽の輝きが体を包み込み、痛みもすぅと消えていきます。なんだかとても楽しくて、その光で体に力が宿った気がして、子猫は最後の歌を歌ったのでした。

 

 カーテンから日の光が差し込んで、わたしは目を覚ましました。
 体を起こしてカーテンを開くと、快晴の空がわたしの体を包みます。まるで、夢の続きを見ているようで、ふと視界が歪んだかと思うと、わたしの目のからぽろぽろと涙が落ちてきて、そこからはもう止まりませんでした。
 昨日のことで様々なことを考えていたような気がします。ですが、わたしは多分、もう、大丈夫です。

 

 わたしの名前は桃花といいます。

 桃のかたちはハートのかたち。愛に溢れた素敵な命に育つようにと、両親が名付けてくれた大切な名前です。
 これからもきっと多くの人に迷惑をかけることでしょう、それでもわたしは愛を持って生きていきます。

 それが命の営みであると信じて。 
 
 了