かもとかち

自分と対話します。

現実みろ

 はい、退院しました。

 精神病棟から退院しました。

 おかげさまでなんつかぅかな、退院が決まってから安心しての後の生活はびっくりするほど病棟に馴染んでしまい、こうやって集団の一部の中に溶け込んでいくのはおっそろしいなあと思った。あと少しで基地がいの一人になってたことでしょうね。いやもうだいぶなってるが。

 

 入院中に時間だけはあって、色々と考えたんだが、やっぱ色々と間違えてた。

 俺は最初からそうすべきだと思ってたんだけどな。他人のためだなんだって動くのはおかしいんだよ。てめえに生まれる感情がないからって動機を他人に委ねるな。人助けとかカッコいいかもしんねえけど、憧れる気持ちはわからんでもねえけどさ、ただの綺麗ごとだろ。おままごとしてんじゃねえぞ。本とか映画の見すぎだ。いい加減現実見ろっての。

 

 あれだよあれ、現状をみろよ。そうやってきた結果が精神病院だぜ? お前が積み上げてきたのはこんなことのためか? 他人なんてのは所詮な、感謝なんてのはその時だけで問題が解決しちまったらコロって忘れちまうんだ。むしろ悪いとこだけしつこく覚えやがる。最後にさ、悪いことしか思い出せないって言われたろ。お前が大事にしてたもんなんてな、この世のどこにもねえんだよ。

 だから楽になっとけ。

 

 お前は病院で自分を普通の人間だと思ったらしいけどな、俺から見たらお前のほうがよっぽど手遅れだろ。いい加減ふりすんのやめとけ。ごみなんか拾うな、捨てろ。

 もう半月か、だいぶ薬が抜けてきたな。

 俺はあんなの間違えてると思うけどな。世間に合わせるために自分を殺してるだけだろ。問題を先伸ばしにすんな。ナチュラルが一番だって。

 

 つーか、お前だれ?

意味もなく悲しい。

もう悲しむことなんてなにもないのに

精神異常者VS精神異常者

 精神病棟での入浴は週に二回しかない。入浴が行われるのは晩ではなく午前の9時からと朝早くに開始される。その日はみな扉の前に持参の風呂桶を置いて順番を作り、我先にと風呂一番乗りを目指す。

 僕は彼らと同じ湯に浸かる気にはどうしてもなれなかった。シャワーしか使用しない(といってもシャワーもこの時間にしか浴びることはできない)ので必死に並ぶ必要がなく、夜中不眠もあって朝が非常にだるく感じる日々で、この日もこの時になってようやく眠気が指し始めていた。浴場は開放から二時間は入る猶予があるのでみなが入り終えた時にお邪魔しよう。ただ、一人で入浴することはできず、看護師同伴でないといけないのはなかなか辛いものがある。

 するとその日は珍しく病棟に張り詰めた空気が漂い始めていた。誰かが叫んだり発狂したりするのにはすっかり慣れてしまい全く気にかけなくなっていたけど、今日はそういうものとは違う、なにか予期せぬ事態が起きたときの、あのなんとも言えない戸惑いが全体から伝わってくる。

 眠気眼で野次馬をしに顔を出してみると、看護師が「今日のお風呂は中止ー!」と叫んでいた。

 

 風呂桶を置いていた老人たちは残念そうに自分の桶を回収してよぼよぼと去っていく。お風呂は週に二回しかない。それを当日に中止にされてしまうのは楽しみの少ない病棟ではなかなか可哀想だ。

 ん? ということは今週の風呂は週に一度しか入れないことになるのか? おいおい、週1はさすがにない。これは人として扱われていない気がする。僕は廊下にある洗面所で髪なんかは容赦なくシャンプーしちゃったりできるけど、他の患者たちにそんな行動する元気が見えない。なんせここは精神病棟、自発的に洗うということができない人のほうが恐らく多いだろう。周りの人間が不衛生なのは普通に不快だ。

 でもまあそうなった以上仕方がない。シャワーに入る予定もなくなったし思う存分眠りに就きましょう。グッドもーにんぐ、お休みなさい。。。

「ふざけんな! バカ、このアマぁ……!」

 同部屋のおじさんが看護師に向かって怒声を浴びせ始めた。これは本当に怒っている。発狂とか自分の世界ではなく、外界に対して怒りをぶつけている。おかげでいい感じの眠気が薄れてしまった。

 おじさんに最近、水虫ができてしまったことは僕も知っている。ずっと痒そうに股関をぼりぼり掻いていたし、昨日は夜中に「かゆーいんじゃ!」と起きたり横になったり辛そうにしていた。だから入浴を楽しみにしていたに違いない。だからあんなに怒っているのだろう。ここでは意味もなく「助けてー!」と叫ぶ人はいても、意味もなく他人を怒鳴る人はいないと思う。

 しかし看護師はおじさんに気にもかけてないようだった。

 そしておじさんはその怒りを表現したいのか、桶に水を汲んできて病室の中にばら蒔き始めた。そこに横たわってじたばたもがいている。実に汚い光景が目の前で繰り広げられていた。僕は眠るふりをするしかできない。だってびちゃびちゃと水が跳ねてこちらまで飛んでくるのだもの。布団に潜ってガードせざるを得ない。さすがにこれは生理的に無理だ。

 すると、そこで水虫おじさんに立ち向かったのは隣のイボじいさんだった。彼は毎日僕に向かって、いかに自分がうつ病リュウマチでイボ痔なのかを説明してくる痴呆のおじいさんである。そんな彼が水虫おじさんに抗議し始めたではないか。

「あなたねエ、こんなことしたらねエ、退院できなくなってしまうよオ」

 イボじいはまるでここが服役中の刑務所であるかのような説得をし始めた。それに対して水虫さんは聞く耳を持たず、相変わらず水を撒き散らし続ける。

 イボも段々と頭に血が登ってきたのか怒気を強め始めた。

「あなたったらねエ!! ほんとをオ、なんなんだよオオ!!」

 それに対し水虫はようやく反応をしめして

「うるさい! この、ボケエ!!」

 と、実に的確な罵声を浴びせた。

 

 何て言うことだ。

 同じ部屋の中で、精神異常者と精神異常者が闘っている。

 このバトルフィールドが目の前で展開されているのだ。なんて迫力なのだろう。昔に観に行った映画で、貞子VS伽椰子というホラー映画があったがあれを彷彿とさせる一戦だ。僕はこの映画が大好きで、最近AmazonPrimeで配信されていたのをもう一度見直したくらいに名作だと思っているのだけど、ネットの評判はあまり良くないのが残念で仕方がない。最近のゴジラなんかよりもよっぽど怪獣バトルをしているのに。

 そんなことを思いながら布団の中でこの一戦を見守っていた。

 僕の見立てでは水をばら蒔いて陣地を有利にしている水虫おじさんに軍配が上がるのではないかと予想しているけれど、イボじいさんもなかなか引くに引けないようで、退院に影響が出るのだと大声で叫び始める。おじいさんは何かにつけて退院に拘っていたのでこの状況は本人もまずいと思っているのだろうが、もう自制ができなくなってしまったようで、今にも殴りかかりそうな勢いだ。

 

 そんな緊張も高まり始めたところに男の看護師がようやく止めに病室に入ってきた。

 まあまあとたしなめるような具合でやってきたせいか、飛び散った水が目に入らなかったようで、看護師はその水に足元を掬われて滑って転んだ。

 

 そのあとはどうなったのだっけ。看護師が珍しく患者に怒鳴っていたような気がするけど、僕は微睡みの中で意識が判別しない。飛び散った水は看護師がモップで掃除していったのか床が前よりもキレイになっていた。これをきっかけにイボじいさんが別の病室に移動することになり、その際に「お兄さんなら退院できますよオ」と言って去って行った。

 退院は既に決まっている。なんだかばつが悪くなってそのことを言うことができず、移動してくれたことにホッとしている自分がいた。

暗い世界

 不思議なことに、閉鎖病棟に入院してから生きたいという活力が湧いてきた。

 ここに入る前は隙あらば死に方ばかりを模作していたというのに、今ではじっとしている時間がもったいないように思う。人生の大切な時間を無駄にしているような気がする。大切だと思える時間があるということはつまり、生きることに拘りが残っているのだ。この内に燻る焦燥感を思い出しましょう。胸に留めておきましょう。生きねば、ならぬ。

 この病院がショック療法を採用していたというなら実に効果的な毎日だった。こんなに自分が短期間で前向きになれるとは思わなんだ。北風と太陽もびっくりだ。

 

 この毎日が懲役だと言うのなら慎んで身を委ねるところなのだけど、別にそういう訳でもない。任意入院だったので僕が出たいと一言発すれば、人権がどうたらこうたらというので出ることができるはずである。

 そんな訳で面会に来てくれた母親にプライドもなにもかもを投げ捨てて泣き言をも吐き散らし、晴れて退院に漕ぎ着けることができた。

 持つべきものは家族だ。ここにいる人たちと自分との違いは病気でもなんでもない、家族がいるかどうかだ。僕はもうずっと長い間その事をすっかり忘れていて、自分一人で生きているような勘違いをしていたけれど、そんなものは良い年をしても未だ自立すらできていない子供の背伸びだった。人は孤独では生きていけないし、生きる意味もない。自分一人程度で得られるような感動に満足しているようでは、まだまだこの世界の荘厳さに触れてすらいない。もっと色んなことが知りたい。退院したら日の光を浴びて自然の豊かさに感動し、労働をして汗を流すのだ。気が向いたら創作をして、息抜きに遊ぶ。そしてお金を貯めて親孝行をしましょう。ずっと閉じ籠っていた殻を破るときが今、訪れた。

 

 といってもすぐに退院できるわけではない。まだ家族に退院したい気持ちを伝えただけで、担当の先生にすら相談していない。もう少しだけこの閉鎖病棟にいなければならない。仕事もなんでも自分の気持ち一つですぐに変えられることはできないのが世の常である。

 

 僕は病院外の裏手にある喫煙所に顔を出していた。

 色々と手続きが面倒だが朝の11時から夕方の4時まで、近場なら任意入院の人(重症ではない)は外出することができる。預かり所に渡していたお金をロビーで受け取れば、自販機でコーヒーも飲むことができるのだ。閉鎖病棟内では蛇口をひねって出てくる水かお茶しか飲むことができないので、コーヒーが飲めるというのは実に文化的だ。嗜好品を味わえることが当たり前の生活をずっと過ごしていたから、こういう細やかな幸せを見過ごしてばかりの人生だった。週に二回ほど売店のひとがやってきてお菓子やジュースを買うこともできるけど、あの老人の列に並んで買うものが子どもが欲しがるものというのが実に屈辱的なので、やはり心を潤してくれるのはこのコーヒーである。

 そのコーヒーを片手に病院の外で日光浴をしていると、同じ入院服が一ヶ所にわらわら虫のように集まっているのが見えて、そこが喫煙所だった。

 その中はいつも見る爺婆と違って年齢層が若く、同じ病棟では見ない顔がいくつかあった。気になってしまい、煙草は吸わないのだけどその集団にすっぽりお邪魔してみたのである。

 中では3人の男女が煙をスパスパと体内の中に吸収しては吐き出していた。挨拶をして輪の中に加わる。手前の男に若いねと言われたので、お世辞に皆さんも比較的に若いですねと返すと失笑されてしまった。

  話を聞くとこの病棟は一階と二階で別れていて、一階は比較的症状が軽い人が入院する解放病棟、二階は難ありと判断された人たちが変なところに行ってしまわないようにする閉鎖病棟の二つでできているそうだ。ここにいる三人は解放病棟での入院らしく、こうして外に出るのも自分のように手続きをしなくても出入りできるのだとか。だからこうしてタバコも気楽に吸えちゃうらしかった。

「解放病棟いいな。なんで僕は閉鎖病棟なんだろう。そこまで酷くないと思うんだけど」

「きみ、病気はなんなの?」

「カルテにはうつ病って書いてました」

「あぁ、こっちはちょっとタイプが違うんだよね。うつで入院なんてそういないからね、だから二階は介護かってくらいご高齢のかたが多いんだよ」

 そう言って手前にいた男はタバコを灰皿に押し付けてその場を去って行った。男の話の意味を煙の中でぼんやり考えていると、もう一人奥に座っていた男性、メガネをかけていて肌白い、いかにも病んでそうな人だ。彼が僕に向かって言った。

「タザキさんには気を付けたほうがいいですよ……あ、タザキさんは、さっきまでここにいた人のことです」

  何故ですかと尋ねてみると

「それは、僕はタザキさんの裏の顔を知ってしまったんです。とても恐ろしいですよ。このことが表に出てしまえば、僕の立場も危うものになってしまう。だから詳しくは言えないんですけど、彼には気を付けたほうがいい」

 え、危ないならなんでそんなこと教えてくれたんですかと聞き直すと

「それであなたがタザキさんに何かされたら、教えなかった僕に責任があるじゃないですか。これは親切心なんです。タザキさんは本当に恐ろしいことを隠していますよ。ああ、モリヤマさんも、タザキさんには気を付けたほうがいい」

 とメガネの男は喫煙所に残っているもう一人の女性に言った。

「……」

女性、話の流れからみるに名前はモリヤマだろうか。タバコを吸いながらメガネの話を聞くどころか存在しないかのように無視している。モリヤマは手元が吸い殻になってくると箱から新しいタバコを取り出してライターと書かれた機械の穴にその先を押し当てた、するとぼっと先端が燃えてタバコに火が着く。ケーブルですら持ち込み禁止なのだから火の元なんてもっての他だ。どうやってタバコに火を付けていたのかと謎だったけどこれで疑問が解決した。

 そのモリヤマにメガネの男の病気について聞いてみると、ケタケタと笑って「統失よ」と答えた。

 タイプが違うというのはこのことだったのか。

 なんだか急に煙が気持ち悪くなって僕は喫煙所を後にした。モリヤマの笑い声だけが後ろから響いて、タバコの副流煙のように僕の体にまとわりついていた。

デパスデパスデパス

 担当医師に調子を聞かれたので、ありのままにここにいると精神が病むという話をした。とにかく呼吸が難しいし周りは恐ろしい、常に僕の精神はパニック状態にあり今にでも"発狂"ーーしちゃってもいいですか?

 

 すると先生は僕にデパスを処方してくれた。

 今まではよくわからない謎の液体頓服薬をガバガバ飲んでいたけど、デパスは実家のような安心感に定評がある向精神薬愛好家なら知らぬ人ぞいない安定剤界の重鎮である。この閉鎖病棟という掃き溜めで人間性を保つためには薬でもキメねばやってられない。お化け屋敷で生活しているような緊張感を常に強いられている。デパスはそんな僕にとっての光だ。断薬するために入院した気がするけどそんな悠長なことを言っている場合ではない。また薬に逃げるのかって? 文字しか見えないあなたにはわからんでしょうね! 地獄地獄地獄に垂らされた一本のデパス。掴まざるを得ない。

 

 睡眠薬マイスリーロヒプノールの王道カップリングが僕の寝る前のレシピだ。体に耐性がついてくるとたまにハルシオンサイレースも追加して調整したりしていたっけ。安定剤に関してはソラナックスが基本的に処方されていたけど、別の心療内科ではエチゾラムというものが出されていて、確かこれとデパスは薬効や成分はほぼ同じだと聞いたことがある。

 人前に出たり緊張しそうなときはこれらをバリバリ食べるとお布団に包まれたように現実から意識が剥離して、溶ける。面接とか重要なお仕事や初デートのときなんかでは何よりも優先するべき必須アイテムだ。世の中の人は安定剤抜きで日々重要イベントをこなしているかと思うと到底真似できないなあと思う。だからあんなに酒をガブガブ飲んでいるのかしらん?

  さっそく処方されたデパスを窓口で要求し、飲み込むふりをして舌下に忍び込ませる。このまま飲み込んでしまうにはもったいない。舌下投与は腸を通過せず直接臓器に届ける働きをしてくれるので効率の良い吸収が期待できる。

 しばらくするとあら不思議、息が難しくなくなってきた。もしかしたら本当に肺や喉の病気になったのかと思ったけれど、ただパニック障害でした。これでゆっくりおやすみできるね。やった~。

 

 よくない。

 精神病院に入院しているのに別の精神病が併発してしまうとは元もこうもない。入院費用はマンガで稼いだ賞金から毎日引かれているのだ。なんでお金を払ってまで苦痛を得ねばならないんだ? こちらは治したいという思いを持って入院した訳なのに、ここでの治療法は指定の時間に処方された薬を出すだけ。しかも心療内科で出されていたものと全く一緒なので続けてもなにかが変わると思えない。他にやることは患者を閉じ込める、以上。

 このままここにいることに、いよいよ意義がなくなってきた。日々なにかが擦り減る感覚に襲われる。辛い。もう、ゴールしてもいいのかもしれない。

クソ精神病棟での日常。

 精神病棟では何もすることがない。しなくてもいい、が正しいのかも知れないが、どちらかと言えばすることがないの方がしっくりとくる。

 そうすると、否応なしに考えこんでしまう。本当の自分と向き合わなければいけなくなる。暇が過ぎると人間は余計な事に意識が飛んでしまうものだ。必要のないことを重要なものであるかのように悩み、深く考え込んで、そして病む。

 それから目を反らすために勉強したり働いたり目の前のことに頭を一杯にして多くの人は生きていくのだろう。哲学なんてものは、僕は心の贅肉だと思っている。

 

 朝になると、病室に例のおばさんがやってきて僕に手紙を渡してくる。そこにはその日の全体の予定が書いていた。

 わざわざ教えてくれるために書いたのか。そんなお世話はいらないのに。むしろ、こうしてやって来られることのほうが迷惑なのです。僕は心を鬼にして冷たい、いかにも、あ~めんどくせえなあ、という態度を示して適当におばさんをあしらった。

 わざわざやって来るのに一言も喋らず手紙を渡していくこの距離感。これが小学生ならまだいじらしいのだが、当人は白髪混じりの昭和に生まれたばあさんである。ハッキリ言って恐怖しか沸かない。

 初対面のときはインパクトで面喰らってしまったが、あれは境界性人格障害じゃないだろうか。いわゆるボーダーと言われている女性に多いもので、俗に言うメンヘラとはこの障害を持つ者が多数を占めている。と言っても、成長して多くの人と関係を持つことで、ほとんどは症状が治まるものなのだけれど。あの年であれはもう手遅れだな。自分で恋愛禁止にされていると言っていたし、かなりのことをやらかしてしまったのだろう。そんな相手に付きまとわれているのだから自分は相当な綱渡りを強いられている。少しでもスキをみせれば刺されかねぬ。思えば初日にわざわざ反応してしまったのがダメだったのだ。ここではどんな相手とも関わり合いを持つべきではない。精神がおかしい人間の地雷はどんなところに置かれているかわかったもんじゃない。

 

 洗面をして電動シェーバーを取り出す。何故電動なのかというと、普通の剃刀だと自傷する患者がぽこぽこ出てくるので、ここでは電動しか使うことができない。

 シェーバーのスイッチを押すと、2秒ほど動いて、ピタリと止まってしまった。そうか、これは電動だから充電しなくては動くわけがない。しかし、そうなると別の問題が出てくる。

 どうやって充電すれば良いのだろう。

 病院にやってきた際に電動のみとすでに言われていたので、その準備はちゃんとしてきたつもりだったが、入院して初めてわかったのがケーブル類は持ち込み禁止ということだ。これは上と似た事情で、首吊りなどの防止のためである。もちろんそのときにシェーバーの充電ケーブルはその場で没収されてしまっていた。なら、どうやって充電すれば?

 看護師にそう尋ねると

「ん~、ご家族の方に充電してきてもらうか、電池式のものに変えてください」

 と言われた。

 不便すぎるだろう。

 電池式なら最初にそう言ってほしかった。僕は普段ではただの剃刀で十分なので、電動なんて病院以外では必要がない。悲しいことに、いま手に持っているシェーバーはもうほとんど使い道がなくなってしまった。奮発して5000円のやつを買ったのに。電動のものと言われたら今どき大多数が充電式のものを買うに決まってるだろ。

 そんなこともあって、僕の顔は日を追う毎に不様な様相を醸し出していった。生気がなくなっていった。だんだんと、この病棟に相応しい見た目へ変貌した。

 

 廊下では、みな懲りずに宛てもなくウロウロとさ迷い続けている。

 不気味過ぎて、最初は彼らのこの行動が理解できなかったのだが、今ではなんとなくわかってしまう。

 ジっとして、考えてしまうのが怖いのだ。

 元々精神を病んでいるだけあって、それぞれ胸中にはドでかい爆弾を背負っていることでしょう。それと向き合うのはさぞ恐ろしいもので、彼らなりの自己防衛なのだ。気を紛らわせている。そして、それを理解してしまえる自分も、いよいよ持ってまずい事態だ。

 身も心も精神病患者らしくなってきてしまった。あの徘徊集団に自分が並ぶ未来が来るのかと思うと、不安でしょうがない。この気持ちを忘れず強く正気を保たなければ。他人の介入すら気にしなくなって、自分のことに精一杯になると、ああいう、世間様のいう、きちがイになってしまうのだ。

 

 ロビーに出て患者たちを見回した。本当にここは爺婆しかいない。若くて四十~くらいか。どう頑張ってもここにいる患者たちが外で自立できるビジョンが浮かんでこない。法律で死ぬことすら許されない人たちの掃き溜めだ。まるで現代の姥捨て山のようだね。僕は何故ここにいるのだろうね?

 

 ロビーのテレビではワイドショーが写し出されている。芸能人のお気楽なトークはきらびやかに映え、ここではうすら寒く人生の貧富を突きつけられているような気がしてならない。そんなことをぼんやり考えていると、隣に若い女性が座った。

 ここでは病院服が支給されていて、みなそれを着用しているのだが、彼女は違う、ラフなボーダーの黒とねずみ色の長袖に下は学校の体操服みたいな紺の短パンを着ていた。おそらく別の患者の面会に来た人だろうか。すると

「最近入って来た人でしょ? 若いね」

と隣に座った女が言った。

 

 聞けば彼女もここの患者らしかった。

 病院服はださいから自前で用意したものを着て、たまに家族が面会に来たときに洗濯やらそういう身の回りの物を持ってきてもらうのだそうだ。そんな方法があったのか。それにしてもこんなところで服装なんて気にしてもしょうがないと思うのだけど、女性が服を着るというのはそれくらい男とは考え方が違うのかな?

 顔はさすがに化粧はしていないだろう、それでも整って見えるのはなかなかの美人なのだろうな。最近はもう、自分でも美醜の基準がすっかりわからなくなってきてしまっている。彼女は美人なのだろうか、それともここにいる間に目が可笑しくなってしまったのか? いまいち魅力を感じない。

 今まで僕が彼女の存在すら気づかなかったのには理由があった。彼女の病室は他の病室とは離れにあって、そこではもう一人の若い女性患者と相部屋をしているそうだ。もう一人のほうはずっと眠り呆けていて一歩も動かないらしく、他に同年代の人間もいないので、ほぼ病室から動かない日々を送っているのだとか。同部屋に同年代がいるとは羨ましいな、こっちはおじいちゃんしかいない。

 病室を出るのは食事の配膳を片すときだけ、相部屋の分も一緒に窓口に届けるそうなのだが、今丁度そのときにテレビを見ている僕を発見して話しかけてみたそうだ。

 確かにこの場所は、若いというだけでかなりちょっかいをかけられる。それに気付かず初日は変に絡まれすぎてすっかりパニックになってしまったし、それで病室に引きこもりがちになってしまっていたので気持ちはよくわかる。

 

 彼女と軽い雑談をしていると、不意に手元が目に入ってしまった。

 あの一線になった水ぶくれは間違いない、リスカ跡だ。

 一時期、自堕落な集団に囲まれた生活を送っていたとき、周りにいた女はみんな、畑を耕すかのように手首をずかずかと切っていた。なので、これを見ると郷愁の念すら感じる。

 この女もあいつみたいに似たような辛い境遇があるのか? と思い始めると、いけない。自分はそういう可哀想な女の力になりたくて頑張って、でもそれは思い上がりで、自分にはなにもしてあげられない無力感だけが残り、結果こうしてここにいるのだ。どうしようもないやつと関わるとどうしようもないトラウマだけを残される。誰かのためにだなんて考えは、人として間違っている考え方だ。二度としない。これからは他人の不幸も鼻で笑ってやる生き方をしていくのだ。

 

 するとテレビでは、ここ連日起きている芸能人の不倫騒動が取り上げられていた。

 不倫と聞くと苦い思い出が蘇る。前に付き合っていた彼女が既婚者と不倫していた過去があったのだ。

 元々彼女は結婚していたとは知らず、男に騙された形になるのだが、それが発覚した後も良いように言いくるめられて、だらだらと不倫関係を続け、結局男側から連絡が来なくなった。都合の良いように使われて捨てられて、でも本人は自分がそういう扱いを受けたことを認めたくなくて、壊れたように「不倫のなにが悪いんですか?」と付き合っている僕に尋ねてくる。本当に可哀想なやつだ。愛してやまない。だけど、好きになればなるほど、その不倫していたという事実が僕にとって気に食わないものになっていく。大事なものを粗雑に扱われた気分になる。最後には「何故そんなに自分を大切にしないのか」と嘆かれたが、それは逆に言いたいセリフだし、そしてその原因はお前だ。

 

「こういうの、どう思う?」

 隣の女に尋ねてみた。

「元カレが結婚してたんで、別に悪くないと思うなぁ」

 まるで関係ないかのような素振りで彼女はそう答えた。

「え、そうなんだ」

 さすがにこの返しはびっくりした。

 

 別に悪いかどうかは聞いていないのに「悪くない」と答えるのは、やっぱりそう自分に思い込ませようとしてるのかなあ。それともテレビに対して言ったのかな。どちらにせよ自分がしているから悪くないというのはちゃんちゃらおかしな理論だ。やはり、こいつも精神異常者なのだなと思い出させられた。

 

 その後、病院に預けている携帯の使い方を聞いて女と別れた。

 入院時に渡された荷物の預かり表を持って手続きをし、閉鎖病棟では使ってはいけないので外出届けを出して受付ロビーまで移動する。

 携帯で母親に面談に来てほしいと電話をした後、久々にネットサーフィンをして、ここのブログも書いたりした。そして携帯の充電がなくなってきていることに気付く。上にも書いた通り、ここではケーブル類が使えないので充電器も没収されてしまっていた。さっきの女がモバイルバッテリーが必要だと言っていたので、面談の前に買ってきてもらわなければ。

 そして携帯の充電の減りが異常に早い理由を思い出した。以前Androidの開発アプリが異常に電力を消耗していて調べてみたところ、OSを最新のものにアップデートした場合、機種によっては無駄に多くの処理を行ってしまうようになり、そのせいでバッテリーの消費が早くなると書いていた。その解決方法が携帯端末の初期化が手っ取り早く、面倒だったので放置してしまっていたのだ。

 横着をしてしまった。どうせろくなアプリもないし、ほとんどのデータがクラウドGoogleに保存されているだろうから今すぐ初期化をしてしまおう。

 

 これがいけなかった。

 携帯というのはauなどのキャリアがあって、連絡先などはGoogleは保存してくれない。そういう設定もあった気がするけど、今の機種に変更するとき携帯ショップに行くのが面倒で、ネット注文で適当に済ませてしまっていた。

 

 連絡先が全て消えてしまった。

 

 その前にラインも消したりしたけど、電話番号などの必要なものは消さずに残していたのに。もう、ない。

 明日母親が来なければ家にかけることもできない。電話番号を勝手に覚えてくれる機能のせいで、誰の番号も覚えていない。彼女の番号もわからなくなってしまった。向こうから掛かってくる当てもない。完全に関係が切れてしまった。

 僕はいつもこうだ。目の前の小さなものに目がくらんで大切なものを失ってしまう。今回もたかが携帯の電池惜しさに今まで築いた全ての関係がなくなってしまった。

 下らないことをグダグダ考えたせいで目の前の事柄が疎かになってしまった。

 心の贅肉のせいだね。

 

精神病棟での夜

 ふらふらと看護師に支えられて自分のベッドに倒れこんだ。めまいがひどく吐き気もあると伝えると、ここに吐けとおまるのような物を渡された。そのあとに血圧を図られて、ただの低血圧なので大丈夫ですねと看護師は言う。

 おいおいお、大丈夫な訳がないでしょう? 意識もなく廊下まで歩いて気絶した経験なんて生まれて初めてだ。ここに来て初めてなったんだぞ。原因くらい気にかけてくれてもいいんじゃないか。

 

 消灯してからの閉鎖病棟は、まるでゾンビゲームのステージのようだ。

 夜も深まり日にちを跨いだ先でも誰かが必ずうろうろと廊下を徘徊している。僕の与えられた寝床は入り口近くに配置されていて、その様子が嫌でも目に入ってしまう。その徘徊している患者たちは、ドイツもこいつもフランスもいちいち病室の中をチラリ、ん、やっとるか? という具合に覗きこんでくるので気になって仕方がない。そしてたまに目があってしまう。するとゾンビみたいに襲いかかってくるのではないか? と不安で不安で心が辛い、辛いよう! と悲鳴を上げた。

「ああああッ!」

 悲鳴を上げたのは同室一番奥右側で発狂し始めたおじさんだった。

 寝付きが悪いのかなあ、さっきからいきなり叫びだすからびっくりしてしまうよ。この病室には六人も詰め込まれてるのに、他人に対して容赦という念がないのかしら? そんな大きな声をあげたらダメだってお母さんに教わらなかったのかな? ああ、だからこんなところに入院してるのか。悪いのは彼じゃない。こんな場違いなところに来てしまった自分が悪いのだ。

 じゃあ寝ろよと思われる方もいらっしゃるでしょうが、これが全然に眠れないんです。案の定、睡眠剤が全く効力を発揮しなかったので窓口までふらふら赴き、眠れませんと夜勤の看護師に言って頓服を処方してもらう。ただこの頓服剤が曲者で、寝付きをよくさせるのではなく、どうやら身体をだるくさせて眠らせるタイプのものであり、意識の方は悲しいほどに冴え渡ってしまっていた。そして時間が続く、続く、続く。

 ああ、気が狂いそうだ……! 空調のせいか空気が乾燥していてうまく息ができない。呼吸が難しい。鼻が詰まる。溺れる。苦しい。眠るというのはこんなにも大変なのですね。

 

 今度は不安を安定させる頓服をもらった。これは液体で出来たもので、最近のニュースに同僚の飲み物に混ぜて飲ませ、事故を起こらせるという事件があったのを思い出した。あの犯人は何がしたかったのだろう。そして僕はこんな場所で何を苦しんでいるのだろう。

 そもそもここに入ったのは、あたまがぱんくしてしまって心の休息が必要だろうと判断したからだ。それなのにこの閉鎖病棟ときたら、休ませるどころか殺しにかかってきているではないか。断薬するにも、こうもばかばか頓服を飲んでしまっているから全くできていない。

 

 ここにいる意味がない。

 

 なんてこった。意味がないのである。むしろ悪化してしまっている。意味があるなら我慢もしようという気になるが、頑張ってもなんのリターンもないのだ。必要がない。とんだ思い違いをした。心が休める場所が、なんと、病院にすらない。存在しない。生きる逃げ道がない。死ぬしかなくね?

 

 一瞬ほど眠りに落ちて、電車のホームにいた。後ろには昔の知人が立っていて、早く死ね、と催促してくる。

 彼女には本当に悪いことをしてしまった。僕の心ない一言で傷つけてしまい、自棄になってたくさん悪い薬物を摂取して、吐いたゲロが喉に詰まり、窒息死してしまったのだ。

 電車がやって来る。下を見下ろすと、線路がどこまでも続いている。まるでリストカットでできた彼女の腕のキズのようだ。後ろから伸びた手と見比べてみると、ほら、真っ赤に染まって、線から球のように溢れだして、血が綺麗に流れ出し始めた。赤い線路を踏み切る電車に血が跳ね返って、車体を朱に染めていく。まるで人でも轢いてしまったようだね。いや、これから轢くのかな。目の前まで迫ったとき、後ろにいた彼女が僕を突き飛ばそうとするのがわかった。

 とっさにそれを僕は避けて、行き場を失った彼女の身体はそのまま線路の下に落ちていく。ばしゃんと大きく弾けて、視界が全て赤になる。通りすぎていく電車の音だけが激しく鳴り響く。僕は自分のことがとても大切で、死ぬのが恐くて仕方がない。そしてまた、こうして彼女を殺してしまうのだ。

 

 こんな夢ばかり何度も見るものだから、僕は睡眠導入剤に手を出したのだった。ずっと飲んでたからすっかり忘れてしまっていた。マイスリーには健忘の副作用があって夢をも忘れさせてくれるのだ。それでも思い出してしまうのだね。

 

 そんなわけで、僕はこんなにも苦しい思いをしたんですよ。だから、低血圧で倒れてしまったんです。

 え、とりあえず頓服を飲めだって? あはは、看護師さん、話一つも聞いてないでしょ?